海龍寺の沿革
 
 開山梅陰慶宿禅師は、大和国高市郡の出生、そのほかの記録は不詳です。 諸国を行脚(あんぎゃ)して遠江(とおとうみ)のこの地に来たり、 遠州灘の波濤松蔭に深い霊夢を感じ、大本家(おおほんや)と呼ばれる実力者、 芝切り大石六兵衛(六衛門)の帰依を受けて草庵を結び、海龍寺を創建したと伝承されています。
爾来、大石六兵衛家は明治維新政府の「神仏判然の令」神仏分離令が発布されるまで約二八〇年の永きにわたって代々、 海龍寺の檀頭(だんがしら)として大世話人役を務めて法灯護持に貢献しています。 しかし、残念なことに十五代当主が神官という役職にあった立場上、明治維新という時のすう勢に逆らえず離檀してしまいました。

海 龍 寺 歴 代 法 脈 年 譜 一 覧 表
歴代 道号法諱 生年 遷化・和年 西暦 年齢
開山 梅陰慶宿禅師 不詳 寛永21年 1644 示寂
 2 久室良公禅師 不詳 延宝 4年 1676 示寂
 3 栢室意公禅師 不詳 延宝 8年 1680 示寂
 4 徹山智公禅師 不詳 正徳 4年 1714 示寂
 5 越叟全格禅師 不詳 元文 2年 1737 示寂
 6 雪岩禅峰禅師 不詳 延享 1年 1744 示寂
 7 雪伝祖庭禅師 不詳 延享 4年 1747 示寂
 8 俊叟全快禅師 不詳 宝暦 6年 1756 示寂
 9 明庵禅燈禅師 不詳 享和 2年 1802 示寂
10 無翁祖因禅師 1754 文政 2年 1819 66歳
11 薩道禅戒禅師 1801 明治 9年 1876 76歳
12 享邦全貞禅師 1842 明治44年 1911 70歳
13 貞邦全峰禅師 1882 昭和36年 1961 79歳
14 龍圭邦安禅師 1908 平成 5年 1993 84歳
15 珪峯泰正禅師 1941  現住職
16 泰峯栄成禅師 1973  副住職


歴代世代年譜によれば、開山禅師は寛永21年(1644)に遷化(せんげ)しています。 おおよそ40年余在住したとすれば、開創年は慶長5年(1600)前後と推察されます。 ちょうど、豊臣家と徳川家が覇権を争って天下分け目の関ヶ原の戦いがあった年にあたります。
江戸初期の頃の山号は「春田山」(しゅんでんざん)、中期は「香玉山」 (こうぎょくざん)、後期から現在の「白雲山」 (はくうんざん)を呼称しています。
明治初期まで当山の寺格は、平僧地でした。故に、江戸時代の記録は過去帳が主体で、その沿革は明確ではありません。 多少ある古文書によれば、7代雪伝祖庭禅師が、ご本尊「延命地蔵菩薩の奉安」を発願し、 その彫刻を京洛の仏工師に発注したこと。 9代明庵禅燈禅師が天明の飢饉のさなかに「山門を再建」し、「仏舎利宝塔を再興」し、 京より大導師を拜請して大開眼法要を行ったこと。 また5年の歳月をかけて近郷を勧進托鉢して「大般若経六百巻」を蔵書したこと。 10代無翁祖因禅師は、文化10年(1813)に大規模な「臨済録会」を1ヶ月間に亘って開講し、 その闔衆(こうしゅう)名刺、駒札(こまふだ)、 決算書控等の貴重な記録が残されています。
本山妙心寺との本末関係は、いつごろ発生したのか不明確です。 各宗寺院が寛永9年(1632)から10年にかけて、それぞれの末寺を書き上げ幕府に提出した 「諸宗末寺帳」の資料には、中本寺である西湖山龍雲寺末のなかに中本寺周辺の末寺は記録されていますが、白脇の三ヶ寺、 海龍寺ほか寶圓寺、光珠庵(現、光珠寺)の末寺は記載されていません。 しかし、末寺と中本寺との深い関わりからすれば、かなり初期のころからあったと推測されます。 なお、光珠庵の開創は海龍寺よりも古く、過去帳の記録からみれば天正年間(1573〜91)の後半です。
当山においては、12代享邦全貞禅師が明治16年(1883)に龍雲寺3世充邦恵満禅師の系譜をついで、 海龍寺の法建壱世となりました。神仏分離令の痛手から回復のきざしがみえてきたころです。開創以来、長きにわたって檀頭をつとめ神官の役にあった大石六兵衛家 (大本家)15代当主が離檀しため、大石家一門がみなそろって寺を離れ神徒に改宗してしまいました。他村の神谷家一軒が残って 廃寺をまぬがれたのです。その後、神道に改宗し離檀した人たちが、いままでとはまったく違う先祖供養になじめず、帰檀する傾向にありました。 全貞禅師は在住約28年で閑居し、明治44年(1911)3月20日遷化、享年70才でした。
これ以降の記録は豊富ですが、割愛します。