|
|
|
「仏舎利宝塔縁起」の古文書を読むこの宝塔は、元々馬込川の河口付近にありましたが、安永7年(1778) 9代明庵禅燈禅師代に海龍寺境内に移設し、 盛大に宝塔の開眼供養が行われた記録があります。 その「舎利宝塔伝記」によりますと、 『馬込川による洪水が相ついで、 中田島界隈の村民が難じゅうしていた。 馬込の河口は、龍の鎌首のごとく日ごと蛇行し、いっこうに治まらない。 ついには、甚だしい波浪のため宝塔の塔身までも流失してしまった。 これは海の龍神のなす業(わざ)に相違ない。 そこで五穀豊穣をねがう村民は、龍神守護の祈願をたて海龍精舎境内に再興した』 と、いまに伝えています。 また、「諸寺院賀儀及衆金帳」の記録によれば、はるばる遠路、 京都より選仏寺天柱和尚を大導師として拜請し、 開眼法要を厳修した。人口の少なかった当時としては真に破天荒、近郷村民千余人が参集し、 諸国からも大勢の寺院がはせ参じ、 遠江一円の宗派を超えた188ヶ寺の住職が随喜して宝塔再興を祝賀したとあります。 天柱和尚の開眼七言偈頌は、棹石四面に篆刻されていますが、 200有余年の歳月をへて字画がかけたりして読みとれない字が多いです。 が、幸いなことに大導師染筆の表装軸ほか浜松の古刹、 浄土宗西伝寺和尚がしたためた舎利宝塔縁起文が現存しています。 なお、塔の上部、傾斜が目立ちはじめた頃、平成7年(1995) 1月17日、淡路・阪神大震災が発生しました。 その惨状を教訓に一大発心し、平成8年春に現在地に再興しました。 舎利塔という観点から、 納骨洞を設けて有縁無縁のお舎利を永代供養として祀れるよう 意匠設計・施工してあります。 | |