寺報 りゅうぎん
平成16年(2004) お 盆 号 (10号) 



   ☆ 「空」って なーに
 般若心経は、全文二百七十六文字の短いお経で、仏法の真髄が説かれています。その内容は、観音さまが舎利弗尊者(お釈迦さまの弟子)に仏の教えを説くかたちで書かれています。
 空―七、不―九、無―二十一
 この数字は、般若心経のなかで使われているそれぞれの文字の数なのです。蓮の花
 「空」「不」「無」という文字が、これほど多く使われていることからもわかります。般若心経は「空」と「無」を説くお経なのです。しかし、ただ単に、すべての現象が空無であると説いているだけかというと、どうもそうではなさそうです。ふつう「不」とは、「なになにではない」というように否定の意味に使われますが、このお経のなかでは、諸法の空の相(すがた)は「不生不滅、不垢不浄、不増不減」である、というように相対する性質そのものが、どちらもすべて否定されているのです。
 「空」や「無」についても、「何々ではなく、だからといってその反対の何々でもない」という、重層的な使われかたがされています。 このように、どちらでもないといわれると、何かとても曖昧で、肩すかしを喰ったような気持ちになるかもしれませんが、実はそうではありません。言葉のこのような使われ方のなかにこそ、融通自在な働きが生まれるといってよいでしょう。
 さて「空」とは何かと問われて、両手を丸い筒の形にして、そこからのぞいて見えるのが「空」だと、洒落のようなことを言った人がいます。眼は対象となる物体を見るけれども、空間そのものを見ることはできません。そこで、手で作った筒の領分をのぞいて見ることによって、空間は筒の中という狭いところにもあるし、またその外側の広いところにもあるということがよくわかるということでしょうか。
 すなわち、「空」とは、どのようにも形を変えることができる自在なものだということが、なんとなくわかるような気がします。  
         住 職 合 掌 


 仏 の 聖 木 と      
  ☆無憂樹の花
 お釈迦さまの生誕のときの花です。アショーカの花といわれています。生母マーヤー夫人が、出産のため生家へ赴く途中、美しい花々が咲き乱れているルンビーニ園へ立ち寄り、無憂樹の花赤い小さな花が房になって咲いているこの花をつまもうと右手を伸ばしました。そのとき、陣痛が起き、出産されたのがお釈迦さまです。
 花の中で生まれたのを讃え、色とりどりの美しい花で飾った「花御堂」の中にかわいい誕生仏をおまつりして甘茶をそそぐ「花まつり」の行事をおこないます。
 ☆菩提樹
 お釈迦さまは、二十九才から六年間、難行苦行をしますが、沙羅の花それは苦悩の解決や世の中の救済にはならないと考え、ガンジス川の畔の菩提樹の下で坐禅をし、思考を深めて悟りを開かれました。
 菩提樹は大木で、ハート形の葉っぱを茂らせ、暑いインドでは快適な木かげをつくります。また黄色の小さな花をいっぱい咲かせ、その種子は数珠にも使います。
菩提樹の葉 ☆沙羅双樹(サーラ樹)
 二本のサーラ樹のもとで、お釈迦さまは八十才の生涯を終えました。そのとき、天上より花が舞い落ちました。また、一本の木は枯れ、一本は残ったと伝えられますが、これは栄枯の相を表したものです。
 平家物語の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」は有名です。沙羅は高木で、大形円錐形の淡黄色の花をつけます。



  見えないものを 見つめるこころ
灯明 毎年、命日になると遠くからはるばると墓参にきて、故人の好物を供え、読経後もいつまでも墓の前で、なにかを語り祈っておられる方があります。
 毎回、お参りに行くたびに霊供膳が供えられ、家族一同が後ろで拝んでおられる家もあります。
 故人の使っておられたものや、持ち物を片付けずに、そのままにしておられる家もあります。いや、そこまでしなくても、誰が見ているでもないのに、墓参をしたり、仏壇にものを供えて拝むという行為は、それ自身尊いことです。
 見える人にものをあげたり、返事をしてくれる人に語りかけることは誰でもします。でも、見えないものに手を合わせ、見えない人にものを供え、参拝見えない人に語りかけることは、理屈でものを考える人にはできないことです。
 それをあえてせずにはおれないということは、その人の思いがいかに深いかということでしょう。だから私は尊いと思うのです。
 両親や、家族を亡くされた方がかならず、こういいます。
 生きている時に、もっとやさしくしてやればよかった・・。こうしてやればよかった・・と。
 しかしながら、その人の死に際してあれほど強かった悲哀の情も、歳月とともにしだいに弱まり、故人のことも、だんだんと忘れられていくものです。
 せめて、お盆やお彼岸のときぐらいは思い出したいものです。自分は故人のために何もしてあげられなかった、いまできることは、ただ手を合わせてお参りすることです。そのことが、いまを生きるあなたさま自身の生き甲斐を見いだす機会になります。

        副住職 合 掌